実家はよくある浄土宗のお寺の檀家で、盆や正月、普段の帰省時には墓参りへ行き、仏壇にも手を合わせる。
とはいえ、日常的に仏教というものを意識しているわけではない。 信仰というより家族の習慣として続けている感覚が強く、自分ではいわゆる「無宗教」に近いと思っている。
一方で、東洋と西洋を問わず哲学には興味がある。 その延長で仏教思想に触れることもあり、信仰の対象というより、人間の自我や行為を考える材料として読むことが多い。
先日、NHK「100分de名著」で親鸞の『教行信証』を扱った第2回を見た。 法然や親鸞の念仏を中心にした考えを、私はこれまで「唱えれば救われる」という大衆向けの分かりやすい教えだと思っていた。 禅のような厳しい修行に比べると、正直、甘い印象を持っていた。
しかし、番組で紹介された他力の考えは想像していたものと違った。 信じるという行為さえ、自分の成果として所有しない。 ここから、人はどこまで自分の行為の起点なのかという問いが湧き上がってきた。
我執を捨てることも自力になる
他力は、日常語でいう他人任せとは違う。 自分の努力によって我執を捨て、自分の意志で何かに委ねることとも違う。
自分の努力で我執を捨てたなら、それも一つの達成になる。 「私は我執を捨てた」「私は委ねることができた」と思った瞬間、その成果を所有する私が残る。
番組内での、伊集院さんのライブのコールアンドレスポンスの比喩が、この分かりにくさをほどいてくれた。
ライブの最高潮の時のコール アンド レスポンスってあるじゃん。「あ〜ああ」に対して「あ〜ああ」がずっと繰り返すこのグルーヴ、ノリは誰が作ってるもんですかって考えていったら、何かちょっと僕には入ってくるんですよね。
(NHK 100分de名著 親鸞 “教行信証”(2)「自分の都合」と向き合う、伊集院 光)
ライブ観客の声は、自分の肺と声帯から出ている。 しかし、その言葉とタイミングは、ステージからの呼びかけと会場の空気がなければ生まれなかった。
声を出したのは自分である。 誰かに強制されたわけでもない。 それでも、自分だけをその行為の起点とみなすことは難しい。
念仏も同じ構造で捉えられる。 発声しているのは自分だが、その行為を自分だけの成果とは言い切れない。
自分で選び、自分で動いているとしても、その選択をする自分は、他者、言葉、経験、偶然によって先に形作られている。 そう考えると、問題は信仰の有無より、行為と意志の関係へ広がっていく。
能動と受動では説明できない行為
行為の起点を考えているうちに、國分功一郎の『中動態の世界』を思い出した。
私たちは行為を、自分が「する」能動と、誰かに「される」受動に分けて考えやすい。 能動には本人の意志があり、受動には本人の意志がないという区分である。
しかし、日常の行為はそれほどきれいに分かれない。
誰かを好きになるとき、好きになろうと決めてから好きになるわけではない。 かといって、誰かに強制されて好きになるわけでもない。 他者との関係や過去の経験が重なるなかで、自分の内側に変化が起きる。
國分が扱う中動態は、能動態と受動態の中間ではなく、両者とは異なる文法である。 國分自身の説明によれば、かつて行為は「能動と受動」ではなく「能動と中動」の対立で捉えられ、過程が主体の外で終わるか、主体の内で起こるかによって分けられていた。
國分の見立てでは、能動と中動の対立が能動と受動の対立へ置き換わった過程には、「意志」という概念の成立が関係している。 行為に先立つ意志を置けば、その意志を持った主体へ行為と責任を帰属しやすくなる。
中動態は、本人が行為に関与していないことを意味しない。 自分がその過程の中にいる一方で、意志だけをすべての源泉とはみなさない。
ライブで声を返す観客も、自分の意志で声を出してはいる。 しかし、その意志が会場の空気と無関係に、観客の内側から突然生まれたわけではない。
この捉え方は、他力を宗教の外から考えるための言葉になる。 「自分が唱えた」か「唱えさせられた」かの二択ではなく、関係の中で自分に行為が生じ、自分もその行為へ参加していると考えられるからだ。
もちろん、中動態と他力は同じ思想ではない。 國分は文法の歴史から意志と責任を問い直し、親鸞は宗教的な救いを扱う。 両者が重なるのは、孤立した意志を行為の唯一の起点とみなせるのか、という問いである。
実際、國分と中島岳志も、意志と責任から親鸞の他力へ進む対談を行っている。 そこで親鸞は、自力か他力かのどちらかへ簡単に立つ人ではなく、その間で「立ち尽くす」人として語られていた。
「救い」を目的にする矛盾
他力を哲学として読もうとすると、「救い」という言葉に引っかかる。
「私」が救われることを目指すなら、救いも自己実現の目標になる。 救われていない私が、念仏という手段を使い、救われた私になるという図式である。
かといって、目的を捨ててただ念仏を唱えればよいと考えると、今度は行為だけが空虚に残る。 「何も求めず、純粋に唱えている私」という新しい自己像も作れてしまう。
この矛盾は、救いを自分の意志で獲得する対象として置くことから生まれる。
目的は、主体が先に定め、手段によって獲得しようとする対象である。 一方、方向は、何かを受け取った結果として生き方の向きが変わることである。
この読みでは、念仏を救いと交換するための手段として考えない。 自分を唯一の起点とする見方が、何らかの経験によって変わっていく方向だけを取り出す。
中動態の言葉を借りれば、それは「私が救いを獲得する」能動でも、「誰かが私を救う」受動でもない。 自分が関与する過程のなかで、自分に対する見方が変わる出来事として考えられる。
これは親鸞の教義をそのまま説明したものではない。 往生や阿弥陀仏という宗教上の前提をいったん脇へ置き、他力に含まれる構造を、自分なりに哲学の言葉へ置き換えたものである。
利他は行為のあとで生まれる
行為者が行為の起点を所有できないなら、その意味も所有できるとは限らない。 ここで、中島岳志の『思いがけず利他』へつながる。
『思いがけず利他』では、誰かのためになる瞬間は偶然に、未来からやってくると説明される。 ある行為が利他だったかどうかは、行為者が宣言するのではなく、受け手が後から見いだす。
本人には何気ない一言が、何年もあとに誰かを助けることがある。 反対に、善意からした行為が、受け手にとっては圧力や支配になることもある。
意図は行為を形作る条件の一つだが、行為の意味を最後まで決めることはできない。 自分は行為の作者ではあっても、その意味の最終的な作者ではない。
利他も、能動と受動の二択には収まりにくい。 与える人が利他を実行し、受ける人がそれを受領するという一方向の関係ではないからだ。 行為の意味は、行為者と受け手、環境、時間のあいだで後から生じる。
中島自身も、利他を考えるときは自分が何をするかより「何を受け取るか」を意識すべきだと話している。 行為者として善いことを計画するより、受け手として、すでに何を受け取っていたのかに気づく。
ただし、行為の意味を所有できないことは、責任を放棄してよいという意味ではない。 自分の意図だけで行為を正当化せず、後から届いた他者の解釈によって、自分の理解と次の行為を修正する責任は残る。
中身は別の場所で見つかる
ショーペンハウアーは『幸福について』で、この世の多くを中身の虚ろなクルミにたとえたあと、こう書いている。
中身はまったく違う場所で探すべきで、たいてい偶然にしか見つからない。
(ショーペンハウアー『幸福について』、鈴木芳子訳)
この一節を、私は行為の意味へ引き寄せて読んだ。
私たちは、行為の中身が行為者の意図のなかに入っていると考えやすい。 善意から始めた行為には利他があり、自分で選んだ行為には自分の意志があり、念仏には救いへ至る因果が入っていると考える。
しかし、中身は別の場所で見つかることがある。 自分の身体、先にあった呼びかけ、受け手の経験、何年もあとの出来事によって、行為は自分が想定しなかった意味を持つ。
私が不遜にも法然や親鸞の考えを浅いと思っていたのも、「難しい修行か、簡単な念仏か」という殻だけを見ていたからかもしれない。 その中身は、念仏の回数や難易度ではなく、行為の起点を自分だけに置かないという、別の場所にあったのではないだろうか。
自分は行為に関与している。 しかし、自分だけが行為を始め、その意味を決めているわけではない。
それは自由意志も責任も存在しないという話ではない。 意志があることと、意志だけですべてを説明できることは違う。
自分の行為をすべて自分の所有物にしない。 その態度は、自由を捨てることより、自由を単純化しないことに近いように思う。