先日、チームのデザイナーからAtomic UX Researchという考え方を教えてもらった。
Centouの解説を読むと、従来のようにリサーチ結果を一つの大きなレポートへ閉じ込めるのではなく、観察した事実やそこから得たインサイトを小さな単位で蓄積し、必要な場面で再利用してゆくアプローチらしい。
使い捨てになりがちなリサーチを組織の資産に変える、面白い仕組みだと思う。
一方で、この仕組みを知ったときに別の疑問が浮かんだ。
もし、すべての企業がインサイトを十分に蓄積し、ユーザーの表に出ない心理まで正確に理解できるようになったら、どの企業も同じ「正解」にたどり着くのだろうか。
今回は、あり得ないほどユーザー理解が進んだ世界を仮定し、その先にもプロダクトの違いやイノベーションが残るのかを考えてみたい。
Atomic UX Researchが蓄積するもの
Centouは、Atomic UX Researchの流れを次の四段階で説明している。
- リサーチの実施:ユーザーインタビューや行動観察などを行う
- ファクトの抽出:リサーチで実際に確認できた事実を取り出す
- インサイトの抽出:複数のファクトを解釈し、ユーザーの動機や課題を捉える
- 活用:プロダクト施策、アイデア、ジャーニーマップなどへつなげる
これはインタビューや行動観察といった個別の手法を一つに限定するものではない。 リサーチ結果をどの単位で整理し、組織でどう運用するかに重心がある。
成果物を大きなレポートに固定せず、ファクトやインサイトを小さく扱うことで、別の施策からも参照しやすくなる。 過去に似た問いを調べていたことが分かれば、毎回ゼロからリサーチを始める必要もない。
ただし、ファクトと施策の間は一本の線でつながっているわけではない。
ファクトは観察した事実であり、インサイトはその事実に対する解釈である。 そして、解釈をどの施策へつなげるかには、もう一段の判断が入る。
Atomic UX Researchが判断の根拠を追いやすくしても、判断そのものが自動的に一つへ決まるわけではない。
完璧なユーザー理解は製品を収束させるか
思考実験の条件を強めてみる。
すべての企業が同じだけ深くユーザーを理解し、欲求、動機、心理的な葛藤まで見落としなく把握できると仮定する。
この世界では、製品の一部はかなり似るはずだ。
入力のたびに迷うフォーム、目的の情報へたどり着けないナビゲーション、読むことのできないほど小さな文字は、ユーザーの役に立たない。 既知の不便に対して使いやすい解決策が見つかれば、競合もそれを採用する。
操作方法やアクセシビリティ、基本的な品質は、共通化されたほうが利用者にも都合がよい。 サービスを乗り換えるたびに検索欄の使い方から学び直したい人はいない。
この意味では、ユーザー理解が進むほど製品は収束する。
しかし、収束するのは主に「すでに目的が決まっている問題の解き方」である。 何を目的にするかまで、ユーザー理解だけで決まるわけではない。
例えば、次のファクトが得られたとする。
ユーザーは、仕事に必要な情報が複数の場所へ散らばり、探すたびに作業が中断することへストレスを感じている。
このファクトからは、複数の施策を考えられる。
- すべての情報を一か所へ集約する
- 情報は分散したまま、横断検索できるようにする
- AIが必要な情報を探し、回答だけを返す
- そもそも参照する情報を減らす
- ユーザー自身が整理しやすい、ローカルなファイルとして所有できるようにする
どの施策も、最初のファクトを無視してはいない。 不便の原因を「置き場所の分散」と見るか、「検索手段の不足」と見るか、「情報量の多さ」と見るかによって、インサイトも変わる。
現実の製品にも、似た領域で異なる方向を選んだ例がある。
Notionは、ドキュメント、タスク、ロードマップなどを一つのワークスペースへ統合する方向を掲げている。 一方、ObsidianのManifestoは、データを端末上のオープンなファイル形式で保存し、利用者の考え方に合わせて道具を変えられることを原則に置いている。
もちろん、両者が同じファクトから設計されたと断言することはできない。 それでも、情報を扱う負担に対して「一か所へつなぐ」と「本人が長く所有できる形にする」という異なる答えが、実際の製品として成立していることは分かる。
機能は今後も互いに重なってゆくだろう。 それでも、何を初期状態にするか、どこまでサービス側へ預けるか、誰が最終的な制御権を持つかには、それぞれの思想が表れる。
ファクトだけでは望ましい状態を選べない
ユーザーを完璧に理解できても、その人の中から矛盾が消えるわけではない。
楽をしたいが、自分で制御もしたい。 目の前の楽しさを求めるが、長い目では時間を浪費したくない。 自分に合った推薦は欲しいが、行動履歴を細かく収集されたくはない。
これらの欲求をすべて把握することと、衝突したときにどちらを優先するかを決めることは別である。
短期的な利用時間を増やすのか、利用者が目的を果たして早くサービスを閉じられるようにするのか。 面倒な作業をすべて自動化するのか、本人が考える時間として一部を残すのか。 現在の利用者だけを見るのか、家族、同僚、地域社会などの非ユーザーへの影響も含めるのか。
ここで必要になるのが、作り手の哲学だと思う。
哲学というと大げさに聞こえるが、プロダクト開発で繰り返している次のような判断を指している。
- どの欲求を満たし、どの欲求には抵抗するか
- 現在の快適さと将来の利益のどちらを重く見るか
- 利便性とプライバシーが衝突したとき、どちらを初期値にするか
- 実装できて需要もある機能のうち、何をあえて作らないか
成果物を雑に式へ置くなら、次のようになる。
成果物 = ユーザー理解 × 技術的な選択肢 × 事業上の制約 × 作り手の哲学
完璧になるのがユーザー理解だけなら、ほかの項は残る。 さらに、技術的な選択肢と事業上の制約まで同じだったとしても、作り手がどの状態を善いと考えるかが違えば、選ぶ機能や初期設定は変わる。
反対に、すべての企業が同じKPIを最大化し、同じ時間軸で利用者を見れば、製品はかなり均質になる。 問題はインサイトの精度よりも、そのインサイトを何のために使うかにある。
まだ存在しない意味は観察できない
この思考実験には、もう一つ厄介な点がある。
完璧に理解できるのは、観察した時点のユーザーである。 新しい製品が登場して行動や習慣が変われば、以前の理解も更新しなければならない。
まだ自動車がない世界で、移動に対する不満をいくら正確に聞いても、自動車のある生活を経験した人の選好は観察できない。 製品は既存の欲求を満たすだけでなく、それまで存在しなかった行動と欲求も生み出す。
Donald NormanとRoberto Vergantiは、人間中心設計による反復は既存製品の漸進的な改善に向く一方、ラディカルなイノベーションには技術または製品の意味の変化が必要になると論じている。
ユーザーリサーチの価値が低いという話ではない。 新しい提案が本当に人の役に立つかを確かめ、粗い発明を使える製品へ育てるうえで、ユーザー理解は欠かせない。
ただし、現在の不満を完全に集めても、「この製品はそもそも何のために存在するのか」という新しい意味が自動的に出てくるわけではない。 作り手は、観察から一歩はみ出して仮説を置き、まだ誰も経験していない関係を提案する必要がある。
作り手はどの未来を選ぶのか
Atomic UX Researchは、作り手の哲学を不要にする仕組みではない。 ファクトとインサイトを分けて蓄積するからこそ、観察した事実と、作り手が加えた解釈や判断の境目を見やすくする仕組みだと私は捉えている。
ユーザー理解が不十分なまま哲学だけを語れば、利用者を置き去りにした独善になりやすい。 反対に、どの未来を選ぶかを示さず、得たインサイトを現在の要望や全社共通のKPIへ直結させれば、局所的な最適化に閉じやすい。
製品の基本的な文法は似てゆく。 それでも、何を便利にし、何を人間の手元へ残し、どのような生活を提案するかは同じにならない。
同じ人間理解を手にしても、作り手がどの未来に責任を持つかで成果物は変わる。 完璧なユーザー理解の先でも、市場は均質化しないと私は思う。